秋葉原通り魔事件について考えさせられた話
私はYoutube大好き人間なのだが、
なぜだかこの動画がおすすめに出てきた。
秋葉原通り魔事件の犯人の生い立ちについて。
15分もある動画なのについつい最後まで見てしまった。
(こういう暗い内容の話ってなぜか興味をそそられるのよね……)
内容はニュースなどで知っていた事がほとんどだが、
改めて考えさせられた。
興味ある方は以下からどうぞ。コメント欄にもぜひ目を通してほしいぞ!
↓↓↓↓
さて。
色々な意見があるかと思うけれども。
アメリカの銃乱射事件なんかでも思うが、
まず第一に、これという確かな原因なんて特定できない。
様々な要素がちょっとずつ積み重なりこの犯人が形成され、
最悪の事件が起きてしまった、としか言いようがない。
かと言って、犯人の頭がおかしかっただけ、とか
メンタルヘルスの問題として全てを片付けるのも乱暴な理論だと感じる。
こういった悲惨な、悲しい事件が再び起きない為にも
なぜ起きてしまったのかを「考える、推察する」という過程そのものは、社会にとって必要で、人間につきつけられた答えのない宿題のようなものだと思っている。
そしてこの行為は決して犯人への同情を煽る為にあるものではない。
ましてや被害者の方からすると罪を憎んで人を憎まず、なんてまず無理な話である。
これらを大前提とした上での私の意見を述べる。
誰が悪いのかを考えるのは無駄
ではこの件、母親が悪い、と言えば、
ではどうしてあんな母親が出来上がったのかという疑問がわいてくるし、
それを見過ごしていた父親はどうなのという疑問もわいてくるし、
なんとも悪い空気の連鎖がこの家庭に漂っていたことを強く感じる。
母親が犯人に、過去のことを謝りハグをしたという箇所も印象的である。
私にとってはこの母親と父親がしていた事は間違いなく虐待という認識だが、一応人の心も持ち合わせ葛藤していたのだろうということは伺える。
しかし人間が幼少期から長いこと精神的、身体的に抑圧されて育つと、理性のブレーキが効きにくくなってしまうというのは間違いなくあり、この両親が犯人にしたことは結果的に取り返しのつかないことになってしまった。
ただ、世の中には虐待を経験した人というのは残念ながらたくさんいる。
細かい自分語りはやめておくが、私が生まれ育った家庭もたいがい悲惨で、自分の家庭がいつ全国紙のニュースに載るのだろうとマスコミや警察が家に押し寄せてくる妄想…を幼いころからしょっちゅうしていたくらいのヤヴァイ環境にあり、
正直今でも、幼少期から常に感じていた’家族の誰かが何かをしでかしてしまうのではないか’という恐怖が完全に消えたわけではない。(だからこそこういったニュースに関心が強いのだと思う)
このような家庭で育った者からすると、
理性のブレーキが効く人間と効かない人間が本当に紙一重だという事は、
身を以って非常に感じている事である。
(私もどちらかというとカッとしやすくて感情的な方だと思うし…)
ではこの理性のブレーキが効く効かない差はなんなのか。
アドラーという心理学者いわく、帰属意識が人を幸せにするという。
自分はこのコミュニティーで必要とされているのだという意識、
自分が必要とされている感覚、これこそが人を幸せにするのだと。
そして家族というのはその最初の、第一歩のコミュニティーである。
そしてそれ以上でもそれ以下でもないのだという。
家族という団体はただの第一歩でしかないのだから、
そこがだめだったらとっとと完全に(←完全にというのがポイント)見切って
他の所で自分の存在意義を見つければオールオッケー♪とアドラー先生は仰るのである。
加藤死刑囚も恐らくそのような過程を踏んでいたのだろうが、うまくいかずネットの中に自分の存在を見出そうとした。
しかしそこでもうまくいかなかったことで完全に自分の存在意義を見失ったのだと推察する。
元々の家庭環境によって出来上がった理性のたがが外れやすい性質に、
疎外感から来る社会に対する完全な諦め、失望が重なり怒りに変わり
本当にあの悲惨な事件を犯してしまった。といったところだろうか。
つまり、家庭環境が全てというわけでもなく、
その後に自分の存在意義を感じられる場所がどこかにあり続ければ、
その紙一重の綱渡りの中で理性のブレーキが効き続けることになったのかもしれない…と私は思うのである。
だって、そうじゃん?
私だって散々な家庭で育ったけど
幸い友達という存在に救われたり、こうしてネットの中でなんとか自分という存在を一生懸命アピールしているわけじゃん?(あんまり相手にはされないけど…)
私としても悲惨な時期も含め、ずっとインターネットの世界に助けられているという自覚がある。
こういう場がなかったら私だって何をしていたかわからない。
ただ少なくともそういった努力(自分はここにいるよーというアピール)をしている間は、人間大丈夫だと思うのです。
私も頑張って生きようともがいているので、
私も、これを読んでいる見知らぬそこの誰かも、
誰からも相手にされなくなっても
どうかあきらめないで。と言いたい気持ちになったので言っておきます。(はずい)
アドラー的に言うなら、どこかがダメだったとしても他をあたればいいだけだよ。
加害者家族が抱える闇
そして、この動画の、弟の部分もなかなか考えさせられた。
加害者家族は、一生犯人の家族という傷を背負って生きていかなければならない。
犯罪を犯す、特に人をあやめるという事は、被害者とその家族だけでなく自らの家族にまで、二重、三重の苦しみを一生与え続けるのだという事実をよくよく認識できていれば、これもまた少しは理性のブレーキに繋がるのかなあ。と思ったりした。
この弟をころしたのは、この家族であり加藤死刑囚でありマスコミであり、我々世間の目でもある。
私だってこう言うのは簡単だけれど、ではいざ自分に娘がいたとして、娘が結婚したいと言った相手の家族にひとごろしの犯罪者がいたら…
私は最初から何かを頭ごなしに全否定する人間ではないけれど、
少なくともすんなりオッケーとは言えないでしょう。
悩むでしょう。苦悩するでしょう。
理想では「何があっても、世間からどんなに白い目で見られようが、
人生かけて娘とその相手を守る」だが、果たして本当に私にその器量があって、実際にそれをやり遂げる事ができるのか、という事だ。
っていうかまだ独身だし想像のしようがないわ…
これもまた自分に、人間につきつけられた宿題のような気がしてならない。
加害者家族の話については、私が語るよりも、
東野圭吾の「手紙」(映画よりも本推し)が考えさせられて印象に残っているので
興味があればぜひ。。
最後になりましたが
本当にこういう事件はやるせなくて、考えてもきりがなくて悲しい。
いろんな角度から見て考えることでこういった事件が減っていけばいいけど
そう簡単でないこともわかっているが故に尚更、難しい…となって口を閉ざしてしまいがちだが、議論をし続けるのが一番大事なのかなと思う。
被害にあわれ亡くなってしまった方に哀悼の意を捧げ、そのご家族ご友人、
怪我をした方、現場を目撃してしまった方などなど…
今も苦しんでいる方たちが穏やかな日々を取り戻せますように。
このような悲惨な事件が世界から消えることを願ってやまない。