EUと日本、死刑制度に対する考え方の違いはなぜ生まれるのか?考察してみた
オウム真理教の幹部らの死刑が執行されたことでEUは遺憾の意を発動しました。
それに対して日本の世論は二分化。
この問題って、本当に難しい。
死刑を廃止している国でも、凶悪犯罪が起きれば、特例で死刑にすべきだ!というような声は必ずあがります。EUにおいても、です。
まずはお前の意見を聞かねえことには読む気にならねえと言われては困るので、先に私の現在の死刑に対する考えを簡単に述べておきます。
・死刑の抑止力は信じていない
・社会構造の不備を死刑という感情論での終結で見過ごさない為にも慎重になるべき
・冤罪の可能性
・本当に死の重さと向き合って初めて生まれる反省もある
・色々と理屈をこねくり回したところで、反省・更生の余地が一ミリもなくて本当に死でしか罪を償なえないようなモンスターっているじゃん…
という点から、犯行現場に多数の目撃者がおり冤罪の可能性が0%であるなど、「条件付きで死刑には賛成」という考えです。
しかしこれが私の答えという訳でもなく、まだまだ答えを模索している最中であるという事は言っておきます。
私にとって死刑アリかナシかの質問は、哲学的な意味を持つので、答えるのがとても難しくなります。人間が人間を裁く事は限界があるし、そもそも人が人を裁くことが正しいのかどうかもわかりません。
この死刑制度の賛否については、賛成派にしろ反対派にしろ、反対意見をよく聞き議論をし続け、自分に問うことが大事なのではないかと思っています。
自分の意見を述べたところで、ここからはなぜEUと日本ではこんなに死刑に対する世論が違うのかを私なりに考察してみたいと思います。
まずは大前提として、宗教的な視点の違い。
EUでは、例え無神論者であっても、キリスト教の性善説的な考えというのは強く根付いています。
人間は生まれた時にはみんな罪のない神の子、悪人も環境によって生まれるものと考えるので「許す」ことや「受け入れる」ことが社会において大切な役割を果たすと考えられています。
(余談だがキリスト教だけでなく正統派のイスラム教にもこの許すこと、受け入れることはとても大事にされている)
それに対して、信仰の面では神道や仏教、思想の面では仏教と儒教の影響が強かった日本では、例え無宗教であっても、
元より人間はみな未熟であるので、自分が自分を律することで徳を積み悪を断ち切る。という考え方が浸透しています。
なので現在も悪人に対しては、それはその本人の修業が足りていない努力不足=自己責任論に繋がりやすいという側面があります。
どちらが良い悪いという事ではなくて、言うならば、「人」という漢字の成り立ちを、「人と人が支えあって人である」と捉えるか、「一人で自分の足で立ってこその人である」と捉えるか程度の違いです。
まずそもそもこの大きな考え方のギャップがあるという事を念頭においておきましょう。
ただし、キリスト教にも儒教、他多くの宗教において「罪を憎んで人を憎まず」という教えはあります。
この教えがどれだけ大事にされるのかは、時代によって都合よくころころ変わります。
そして、次に、哲学的な視点の有無。
哲学と宗教とは磁石のような対極的な存在ですが、
西欧(現EU)は、特に18,19世紀以降、哲学の視点から人と社会の在り方、政治がどうあるべきかの議論が活発になっていきました。
キリスト教そのものを真っ向から批判し、性善説など存在しないと言い切るものまで当時としては受け入れ難いような内容でも、議論が活発になることによって、人々の思想に大きな影響を与えました。
わかりやすく言うと、
「自分やあなたがこういう風に考えがちなのって、結局宗教的な教えや縛りによるものじゃない?それって本当に正しいの?社会はそれでいいの?この固定化された価値観って権力に利用されやすいんじゃないの?一回宗教的な感覚とは切り離してイチからみんなで自分の頭使って考えてみない?」
という一種の哲学黄金期ともいえる動きが起こり、有識者の間で議論され、のちに市民もこれについて学んでいき、人、社会、人権の在り方などに関する思想的な革命がおこり、先進的な民主主義の考え方にも影響しました。
一方で日本で哲学とは、自分自身と向き合う為の自己啓発のような役割が強く、それは長く仏教や儒教が担っていました。
儒教や仏教も元々は人々の思想と政治の在り方に関する学問ではありましたが、一般市民にとっては議論を重ね、より良いものを考える学問というよりは教えとして根付いていました。
19世紀の西欧で起こった「そもそもなんでみんないまだにキリストの教えにいまだに縛られてるの?」というような「そもそもなんでみんないまだに仏教/儒教の教えに縛られてるの?」という疑問を投げかける哲学者は出てきませんでした。
(実際にはいたけれど市民に浸透するほどの大論争にはならなかっただけかもしれません。私が知らないだけかもしれません)
つまり日本での哲学と、西洋哲学はというのは少々別物です。
このような流れがあり、日本では人と社会の在り方を語るのは政治的なプロセスに限定され、そこに哲学が絡んでくることがあまりありません。
なので、いくら政治的な議論が活発になったとしても、日本はこの19世紀の西欧哲学的な思想改革の時代を経ていない為に、まず常識に沿った考えから自分の意見を導くという方法に頼りがちです。
ただし日本でも現在は西洋哲学を学ぶ人も増え、またはインターネットで世界の動きを知る情報量が圧倒的に増えました。西洋の影響がより身近になった事により、常識に囚われず自分の頭で考えるという事の重要さを理解する人が増えてきているように感じます。時代と共に変わっていくのも時間の問題かもしれません。
哲学の説明が長くなってしまいましたが、
とにもかくにもこうして西欧(EU)では、
元々のベースにあるキリスト教的な考えの元に、哲学的な視点が加わりました。
犯罪についても、復讐心や感情論を基準に人を罰するよりも、同じ犯罪を生まない為には社会全体としてはどうあるべきが正しいのか、という考えにシフトしていきました。
その結果、ギロチンしまくってたような国が続々と死刑を廃止していきます。
更に第二次大戦後は、もう世界中みんなが痛い目見たんだから、万が一、権力が悪い方に向かった時には、死刑は脅威になって罪のない市民を攻撃する可能性があるから、もう全面的に強く禁止しておくべき、という考え方も、より強く浸透していきました。
EUとしてまとまった後でも、死刑廃止は文明国として必須の条件とまで位置付けています。
ちなみにお隣韓国は、表面上では死刑制度を維持しつつも10年以上していないという執行凍結状態にあります。
韓国はキリスト教が日本よりも普及している事に加え、EUとはFTA(自由貿易協定)を結んでいます。
(日本が鎖国してNO!西洋!とやっている間にこっそりとキリスト信仰が始まり、朝鮮戦争後の貧しい時代にキリスト信仰が拡大)
とは言え日本や中国と同じく、仏教と儒教の考え方が根強く染み込んでいる韓国でのこの執行凍結政策は、EUのご機嫌を取っていると見るのが妥当かもしれません。
韓国の世論でも、死刑を執行せよという声はとても強いです。
とてもタイムリーな話題ですが、ちょうど明日2018年7月11日に日本はEUとの間にEPA(日EU経済連携協定)を結ぶ予定です。(西日本の洪水被害により7月16日に延期)
(どんな内容であるかは外務省のサイトにPDF資料がありますので興味があれば目を通してみると良いかも)
これを機にEUと関係がより近くなることにより、死刑制度廃止に関するEUからの遺憾の意も強めになるのでは?と私は予想しています。
そうなれば支持層に死刑賛成論者が多い安倍政権としては、難しい舵取りになっていくかもしれません。
日本もいずれ韓国のように、世論を配慮し死刑制度を維持しつつも経済を重視した凍結政策に至る可能性は十分にあるはずです。
深読みかもしれませんが、オウム幹部らの死刑執行が「なぜ今なのか」というのは、この条約が成立してEUからのお達しがうるさくなる前に、まとめて執行したのではないか?と思っています。
日本国内では、EUの遺憾の意に対して、
生け捕りにして犯人を裁判にかけずに、真実を追求せずにその場で射殺するよりよっぽど人道的だろ!という意見が目立ちます。
私も生け捕りして裁判にかけるということは非常に大事だと思います。
しかし現場では銃が使われる事が多いため、一秒を争う中で警察官がもたついて被害者が増えれば、後からその責任を問われます。なのでその場で撃ち殺すことには正当性があるとされています。
私がそれよりも強く思うのが、いかなる死刑も「国家による殺人」という位置づけならば、軍事行為による民間人への殺傷も国家による殺人ではないのか?
ということです。
国家による殺人を否定するのならば、司法の世界にだけこの論理を当てはめるのは矛盾しています。
日本が反論すべき、指摘するのならばこの矛盾を追求する方がEUにとってはイタイのではないかと思います。
最後になりますが、そもそも
許しや受け入れる事が大事とされているキリスト教の国でも、
死刑は長い歴史の中で元々ずっとあったわけです。
冒頭でも述べましたが、罪を憎んで人を憎まず的な教えは
あらゆる宗教の教えの中で見る事ができるのに、
この教えを心で理解し実践すると言うのは中々難しいです。
人間には感情があるので、やられれば、腹が立ち、許せん!仕返しじゃ!となるのも
ごく自然なことです。
この自然な感情に対して、何が正しいとか悪いとか、第三者が判断することは不可能。
人に感情がある限りそれを司法とどう折り合いをつけて社会を運用していくかというのは、正解のない課題です。
それほど難しい事だからこそ、人間への課題として古くから教えにあるのかもしれません。
死刑廃止の歴史は人類にとっても新しい試みなので、世界もまだ答えを知りませんし、
答えを出せるものでもありません。
廃止しておきながらも特例で認めるような国も過去にはありましたし、まだまだ議論を続ける必要がありそうです。
オマケで、見てほしい映像があります。
米国で息子を殺された母親(Adbulさん)が、その犯人と犯人の母親を前にすると、両者をハグし、そして「あなたを許します」と宣言するのです。
たった3分にも満たないこの映像ですが、
彼女のこの行為と言葉が、多くの人の心を揺さぶりました。
(※少々衝撃的な画像が出てくるので閲覧注意)
0:55 あたりからの彼女の言葉を意訳します。
”
あなたを憎みません。
憎むことができません。
それは私たちの道ではありません。
許しの気持ちを見せること、それが私たちの道です。
あなたは赤ん坊でした。
そして今もまだ、子供です。
彼の死は運命によって決まりました。
恐らくその運命の目的は、あなたの命を救うことです。
あなたはこの社会から殺されてはいけません。
私の家族は、あなたが人生に希望を持つことを見届けたいと思っています。
この過ちはもう繰り返されません。
なぜなら私はこれから、あなたの人生の一部になるつもりだからです。
この世に受ける全てのいのちは、一人だけのものではありません。
それは全て、他のいのちと繋がっています。
私たちが望むことは、復讐ではありません。
復讐は何も解決しません。
したところで、私の息子は返ってきません。
”
そしてこの犯人の若者がこう言います。
"Adbulさん、謝罪したいです。ごめんなさい"
最後に彼女のこの言葉で動画が終わります。
"本当に心の底から相手を許した時には、
その人をどうやって助けるかだけが見えてきます"
いやはや。目から汁が。
「怒りや憎しみ」という負の感情に勝った彼女の言葉は、とても重みがあります。
ぜひ人類がお手本にしたい言葉です。
コメント欄も読んでみましたが
・イスラムの鏡だ!
・これが本当のイスラムの教え!許すこと、助けること。
・宗教は関係ない。彼女の姿勢はみんながお手本にするべき
などと彼女への賞賛の嵐でした。
ただ恐らく、わたしは心が汚れているのでしょう。
でもこういう許すばかりの人が増えたら、調子に乗る犯罪者もいるだろ
とか、
いくらこちらが愛を持って接したって、仇で返すようなクズもいるじゃん
とか、
その場ではごめんなさいと言えても心からの言葉かわからないじゃん、本当に更生するんだろうか
とか、
そりゃ彼女のように出来たらいいけど憎しみという自然な感情は悪なのだろうか…
などなど止まらない下衆思考。
私は汚れました。誰か人を信じる方法を教えてくれませんか…そうだ。性善説でも信じてみようかな…え?もう遅い……?
なんといいますか、繰り返しになりますが、
何がイイ、これが正しい、と決めつけるのではなく、色んな意見によるバランスで世の中が成り立つのが一番いいのではないか、結果、議論をし続ける事だな、と私はそこを現在の落としどころとしています。
もちろん、Adbulさんのような人間でありたいという気持ちも残しつつ。
以上、長くなりましたが私なりの考察でした。最後まで読んでくださった方ありがとうございましたーー