まつブロ

思考の渦

重度の鬱病患者には安楽死を認めたらどうだろうか

またか。北九州市で女性4人の集団自殺のニュース。

こういうニュース見る度にいろいろ考えてしまう。

「自殺は良くない」そりゃそうだけど、自殺を考える人だって

「自殺は良くない」ことなんて十分にわかっていると思います。

この自殺は良くないという倫理と、死や苦しみへの恐怖と戦って

最終的にそれでも死にたい、が勝ってしまった人が死ぬもんだと思う。

私は半分自殺志願者で、半分自殺がなくなってほしい、

また同時に自殺志願者の近くにいたことがあるという立場にいるので

いろんな立場からものを見れるような気がするので

非常にセンシティブな内容ではありますが常々思っていたことをブログに残しておこうと思います。

 

去年2017年はトップスターの自殺が重なった事もあり自殺問題について改めて考えを巡らせていました。

リンキンパークのチェスター氏、Shineeのジョンヒョン氏。

チェスター氏の生い立ちに関しては結構知られていますが、長い間虐待され

その傷とたたかいながら人生の長い間、ずっと自殺願望と共に生きていたようです。

ジョンヒョン氏については詳しくはないですが、「過去の記憶は消した」という発言や「父親の事について話すことはない」といった発言からファンの間では

恐らくなにかつらいことがあったのだろうと推測されていたようです。

なんとなく鬱病の気があるという事も一部のファンは気付いていたようですが、

アイドルという立場上、彼が背負っていたものはもっと複雑だったのかもしれません。

 

そもそも、どういう経緯で重度の鬱病になるかは人それぞれで、

この2人で考えると、家庭環境が作ったものや特殊な環境が大きい事は推測できますが、

同じような環境下のなかで育っても力強く生きれる人もいるわけで、

そこに個体差があるのだと思います。

そして誰もその個体差を否定することはできません。

 

ジョンヒョン氏の遺書を読みました。ここには載せませんが、

重度のうつ症状の中にいる事が強く読み取れました。

他人への視線の向け方、世の中に対する考え。

その苦しみが赤裸々に綴られていました。

彼の遺書はある意味では、重度の鬱病患者の気持ちを代弁しているような気さえしました。

この「死にたい」という無気力に身体中が支配され、身体が鉛のように重く

ただひたすらに苦しいという感覚は、なった人にしかわからない耐えがたい苦痛です。

そしてその苦しみがいつ終わるのかもわからない、地獄のような状態。

 

末期のがん患者がいたとします。苦しくて仕方ないからもう死にたいと言えば、

その身体的な痛み苦しみは想像がつくため、人は同情することができます。

しかしその苦しみが心からくるものだとそれは複雑な構造をしているため想像が難しく、同情するのが難しくなる。

 

重度の自殺志願者が一番得たいのに得られないもの、それは死にたいという気持ちを肯定してくれる存在です。

人が極限まで苦しくなってしまった場合、望むのはただもう、

これ以上の苦痛なく、安らかに逝きたい

という答えに行き着くのは身体的であれ精神的であれ同じ状態なはずです。

 

重度の鬱病に関して、よく人が勘違いしているのが

自殺志願者は「死にたいから死にたい」と思っているということです。

これが正しい場合もありますが、多くの場合、

「とても苦しい。この苦しみにはもう耐えられそうにない。苦しみの連鎖から解放されたい。それにはもう死ぬしかない。だから死にたい」

と言うのが正しい事の方が圧倒的に多いと思います。

重度の鬱状態にいると、多くの場合論理的思考力が弱っているので、きちんと自分の状態を伝える事ができず、

やっとふり絞って出てくる言葉が「死にたい」という一言になってしまうのです。

死にたいから死にたいのではなく、

この得体のしれない、終わりのない痛みや苦しみから解放されたいから死にたいのです。

 

座間の、自殺志願者を9名ころしたあの事件もより自殺について考えるきっかけになりました。

被害者たちがネット上で探していたものは、最後に死を肯定してくれる存在でした。

犯人の「全員、本当に死にたい人はいなかった」という供述が本当か嘘かは知りえませんが、

無残にも殺されてしまう。

もし、万が一本当に自殺志願者であったとしても、一人の人間が、このような悲惨な終わりを迎えることがあっていいのだろうか?

 

集団自殺などのニュースを見るたびに、この闇は深いと毎回思います。

 

 

また一方で、重度の鬱病患者、自殺志願者を周りに抱える人間にも限界というものがあります。

これも経験した人にしかわからない辛さがあります。

責任感が強い人ほど、支えになってあげたいとか、自分が変えてあげられるはずだと思ってしまうかもしれませんが、

自分の人生を捧げる覚悟でもなければ、それは不可能に近いほど難しいことです。

そして一番厄介なのが、鬱は伝染するという言葉もあるように、支えようと頑張っていた人までもが精神に異常をきたしてしまう事があり得ることです。

こうなると、

ある一定の感覚を超えた時にその自殺志願者に対して「ならもう死んでくれ」と思うようになってしまうことすらあります。

とてもじゃないけれど、一人の人間の死は、一人の人間が背負える事ではないのです。

 

その周りにかける精神的負担まで見越して、そっと自殺してしまう人の数も多いのでしょうけど。

 

日本ではそもそも安楽死が認められていませんが、

なんなら私は日本で安楽死を認定するのって結構こわいことではないかと思ったりするので(本当はもっと生きたいのに周りへの空気読んで死を選択せざるを得ない状態が蔓延しそうな懸念)

とても矛盾したことを言いますが、

重度の鬱病患者に安楽死を認めたらどうだろう、と思います。

 

現状でも、安楽死が認められている国で

鬱病(自殺志願者)への安楽死が認められたケースって確かわずか数件のみだったと思います。(まだ20代のわかい女性だったはず)

ただもし、重度のうつ症状の中に長期間いて回復の見込みがないような人にこれが当たり前に認められるようになれば、

集団自殺や、または自殺志願者を狙った悪質な殺人・犯罪などが減り、

当人としても、苦しみへの恐怖を和らげることや、死を肯定的に捉えてくれる場所で静かに息を引き取れると言うのは、

最期の唯一の希望のように感じられるのではないでしょうか。

 

当然賛否はわかれると思いますが、この制度が仮にあるとしたら。

無理に生きなくてもいいという制度が公に正しく機能していたとしたら。

それだけで精神的負担から解放される人も少なからずいるのではないでしょうか。

 

最後にそもそもですが。

 

私はやっぱり自殺を悲しいと思います。

と同時にその要因をひとつひとつ探ることで

自殺を、そして自殺志願者も減らせるとも思っています。

過労による鬱が進行して死にたいのか、

身体が弱くて死にたいのか、

貧困から死にたいのか、

生まれ育った環境からずっと自殺願望とたたかっているのか、

借金が返せないから死にたいのか、

色々な背景で社会から疎外感を感じて死にたいのか、

人間関係のコミュニケーションがうまくいかないトラブルから死にたいのか、、、

 

人が死にたくなる理由は複雑な要因が絡まっていてひとつに絞ることはできません。

しかしその色々な要因を考えてみて、

ひとつひとつ取り除くにはどうしたらいいのか?

と考える事も忘れてはいけないと思います。特に日本は自殺が多いので。

とてつもなく重い事、みたいなノリではなくて、もっとラフに話せるようになれば一番いいのにと思ったりもします。

地道で長い道のりではあるかと思いますが、

少しでも、ひとつずつ、自殺の要因を減らしていければ自殺や自殺志願者は減るはずです。

 

少なくとも先進国で、明日食べる物に困らない、寝る場所に困らない、明日ころされる可能性が少ない、という状態でこれだけ自殺が多いというのは何か社会的な歪みがあるのかもしれません。

この社会はまだ完ぺきではありません。

鬱や自殺志願者がなくなる社会。が理想ではありますが、すぐには減りそうにもありません。

こういう人間が一定数いる以上、安楽死という応急処置が救いになるのではないかと思います。

そして鬱や自殺志願者が社会からなくなった時、安楽死がなくなるのが理想です。

お役目ごめんでいつか安楽死が無くなればいい。夢物語みたいな話ではありますが、それが一番いい。

 

いろいろ意見はあるかと思いますが、

わたしなりに真剣に考えたらこういう考えに行き着いた、という話でした。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

次はなにかポップなこと書きたい。以上おまつでした