まつブロ

思考の渦

宇多田ヒカルのノンバイナリー発言から自分の性を考える

 

衝撃的なニュースが目に飛び込んだ。

宇多田ヒカル、ノンバイナリー公表。

 

宇多田ヒカルを敬愛する一人として、やっぱりそうだったのか!と腑に落ちた感覚を得た。

 

もう10年近く前から、彼女は大きく分ければLGBTQの何かに属すのではないかと私の中で密かな確信があったが、これと言った確証もなく彼女の性にミステリアスさを感じていた。

 

彼女の作品やインタビューや発言から、性に囚われない考え方や自分という個を基準に話す姿勢、もっと言えば服装などからもどことなく中性(女性性に囚われていない)を感じていた事からそう思うようになっていた。

と同時に、そこに魅力や親近感を覚えていた。

 

私が彼女をそう汲み取っていたのはきっと私自身もノンバイナリーに属すからなのだと思う。

 

有名人の公表の波に乗って何となく発言している訳ではなく、私はずっと自分の性自認に関して疑問を持って生きてきた。

 

子供の頃から女性らしさを強制されるのが嫌で、

「女らしくしろ」と言われても「なぜ?」から理解が進まなかった。

そしてその「なぜ?」にきちんと向き合って一緒に答えを探してくれる大人はいなかった。

 

同じ事なのに女性であることが理由で評価が変わること(例えば部屋の整理整頓が苦手な男性は大目に見てもらえるのに女性だとより人格に問題があると捉えられてしまうような)にも敏感だった。

逆も然りで女性は泣いてもいいのに男性は弱さを見せちゃいけない、といった社会的圧力にもいつも疑問を持っていた。

 

フリフリがついた女性らしい服装は自分が着るのは嫌だったり、女性なら当然気にかけるオシャレなカフェや美容やファッションには疎く、男性にいかに好かれるかを説くような女性誌がとにかく嫌。

就職した際に親が役に立つからと買ってきてくれた「女性の品格」という本は少し読んだだけで目眩がした。古い男尊女卑の考えを持つ父がこの本を私に読ませようと思った意図を考えると吐き気がした。

人、そして社会人としてあるべき姿を書いてあるのは勉強になるがそれが「性」に結びつく事が理解出来ない。と言うと「まだ分からないか」と子供扱いされて終わった。

 

性について真面目に考えているからこそ見るもの、感じるものがあるのだが、見えてない、見るつもりもない人に私が見ているものを説明するのは難しいと感じた。

 

話がやや逸れたがとにかく、私は昔からスポーツやお笑いを観たりゲームをしたり、少女漫画より青年漫画、読む本もどこかおじさんっぽかったりと男性寄りの指向があった。

 

なぜ女らしくしなくてはいけないんだろう、私って何で女なんだろう。

と同時に男性に男らしさが押し付けられる事にもずっと疑問を持っていた。

早い話が、なぜ皆がそんなに性別に拘って生きているのか理解できずに、この違和感を漠然と抱えて生きてきた。

 

 

ここで誤解してほしくないのは、ノンバイナリーは性自認にのみ言及する事であり、性的指向とは別である事だ。

 

性的指向に関しては言い出せばキリがないし本題から離れるので今は触れないが、

少しLGBTQについて学んでみると、昨今は細分化が進んでおり、際限なくカテゴリーわけがあるような印象だ。

これだけ細分化されていると、恐らくかなり多くの方がどこかに属す。つまり突き詰めると一人ひとり違った「その人らしさ」という所に行き着く。

 

こう考えると、性自認に関してカミングアウトという言葉もしっくり来ない。

 

私は、私は(生物学的に)女性です、という事に抵抗はない。

胸はあるし、男性器はないし、月経は来るから、自分は女なんだろうなと思う。そこに疑問は抱かないので、わざわざ細かいことを言えば私はノンバイナリーなんです、と主張するつもりもない。聞かれればそう答えるけど。

ちょっと変わった女性という認識でも十分だけど、ノンバイナリーの概念がもっと広まれば、自分を説明する時にひとつ楽ができる。とも思う。

 

これからも「もっと女らしくしろ」みたいな事を言われても「これが私です」としか思わないし、変えようとも変えなくちゃとも思わない。

 

女性としての自分を意識しないのと同じようにノンバイナリーも特に意識せず私は私でいたい。

 

以上。

 

 

自分の性自認について真面目に綴ってみたのは初めてなので面白かった

読んでくださりありがとうございました