まつブロ

思考の渦

岡本カウアン氏による告発は日本の人権意識が高まった象徴

岡本カウアン氏の告発が擁護されるような世の中になった事自体が、日本の人権意識が高まった象徴的な出来事である。
彼は現在も告発による二次被害を受けているようだが、これがたかが10,15年前だと今以上の罵詈雑言を浴びていたかもしれない。
世に理不尽は常だが、平成までの日本には令和の今以上に多くの理不尽があった。大人も子供も自然に社会の理不尽を当然の事として受け入れ、理不尽を理解し、騒がず我慢するのが美徳とされた。
人間を構成する上で最初の社会である家庭でさえ、その在り方について議論が深まったのはここ最近の事だ。「父親は最初に嫌われる存在として(反面教師という意味で)存在している」とは平成に活躍した某コメディアンの言葉である。
家庭内での理不尽に慣れるという事は、社会で生じる理不尽に対しても鈍感になる土壌が培われる事と同じだ。
エンターテインメント業界は特に理不尽の上に成り立っていた世界であり、性的な接待などは薄々悪であるとは思いながらも「芸能界はそういうものだから。日常茶飯事だから」と問題視する者は多くはなかった。
しかし未成年に対する性的虐待まで見過ごされる社会であってはならない。
ジャニー氏は「ハングリー精神があるから」という理由で貧しい子や片親などの子供も積極的に見ていたというが、岡本カウアン氏の「親が二世(権力者)の場合は手を出されていない事が多い」という発言と踏まえると、あえて'より弱者'をターゲットにした悪質な犯行であった可能性も考えられる。

 

明治維新以降、形式だけ西洋文化を輸入し西洋の社会的枠組みの中で発展してきた日本社会だが、近代西洋文化が育まれた歴史的背景や宗教的価値観に対する造詣が深い人は少ない。これでは当然社会に歪みが出てくる。この歪みを被り続けてきたのが日本人だ。なぜ「人権」が大切にされるべきなのか、我々はきちんとした教育を受けていない。
しかし近年はインターネット、SNSの発達によりあらゆる世界的なムーブメントが巻き起こり、より簡単に国内外の情報に触れられるようになった。その結果きちんとした人権・精神教育を受けなくとも、肌感覚で真の人権の価値観を理解した若者が増えた。岡本氏の告発はそれを象徴する出来事であり、日本社会が真の意味での西洋化に差し掛かる大きな転換期に入った事を意味しているようにも思えた。
岡本氏の告発の元となったBBCのドキュメンタリーには単に「日本社会の異様な忖度」だけにフォーカスせず、上記のような日本の歴史・文化・宗教的背景に対しても踏み込んだ報道にしてほしかったのが唯一残念な点だ。

この一連の騒動で私が気になるのが、「今後の日本の芸能界やジャニーズ事務所の為にもほか被害にあったタレントらもジャニー喜多川氏による性的搾取を公表するべき」との意見だ。
過去の事象をその当時の社会背景を無視しながら現代の価値観で殴りつける状況は多々あるが、この件も同じく、その時代その場にいた者にしか分からない世界が存在する。被害者であるタレント本人らに告発する気がないのなら、告発しなければならないという社会的抑圧まで負わせる必要はないというのが私の考えだ。
喜多川氏の手法は心理学用語では「グルーミング」という一言で済まされるのだろうが、あれだけの所属タレントがいる中で告発しない被害者の多さを考えると、グルーミングという範疇を超えた、一言では片付けられない喜多川氏の人間性への理解があった者もいただろうと推測できる。
しかし、未成年に対する性的虐待は決して許されるべきではなく、その長期に渡る卑劣な犯行は生きている内に法の裁きを受けるべきだった。その圧力をかけるのがメディアの役割であるにも関わらず、それをせずに被害者を増やしたメディアの責任は大きい。
未だに大手メディアで大々的に報じない日本の忖度根性には驚きを通り越して呆れを感じるが、現在ジャニーズ事務所は未だに直接的な表現を避けながらようやく第三機関を設けるなどの再犯防止の措置を始めた。やるからには今後の日本の芸能界のロールモデルになるように徹底的にオープンにし、クリーン化を図ってほしいがあまり期待はできないかもしれない。
と同時に、岡本氏のように告発する者が表れた事、その告発を支持する人らがいること、そして性的虐待・性的搾取は悪であるという当然の認識する人が増えた事を知れたおかげで、次の世代の日本に対しての希望も抱いている。
人権の第一歩、自分を大事にすること、されて嫌な事を嫌と言え、その気持ちが当たり前に尊重される日が来るのはそこまで遠くないかもしれない。

宇多田ヒカルのノンバイナリー発言から自分の性を考える

 

衝撃的なニュースが目に飛び込んだ。

宇多田ヒカル、ノンバイナリー公表。

 

宇多田ヒカルを敬愛する一人として、やっぱりそうだったのか!と腑に落ちた感覚を得た。

 

もう10年近く前から、彼女は大きく分ければLGBTQの何かに属すのではないかと私の中で密かな確信があったが、これと言った確証もなく彼女の性にミステリアスさを感じていた。

 

彼女の作品やインタビューや発言から、性に囚われない考え方や自分という個を基準に話す姿勢、もっと言えば服装などからもどことなく中性(女性性に囚われていない)を感じていた事からそう思うようになっていた。

と同時に、そこに魅力や親近感を覚えていた。

 

私が彼女をそう汲み取っていたのはきっと私自身もノンバイナリーに属すからなのだと思う。

 

有名人の公表の波に乗って何となく発言している訳ではなく、私はずっと自分の性自認に関して疑問を持って生きてきた。

 

子供の頃から女性らしさを強制されるのが嫌で、

「女らしくしろ」と言われても「なぜ?」から理解が進まなかった。

そしてその「なぜ?」にきちんと向き合って一緒に答えを探してくれる大人はいなかった。

 

同じ事なのに女性であることが理由で評価が変わること(例えば部屋の整理整頓が苦手な男性は大目に見てもらえるのに女性だとより人格に問題があると捉えられてしまうような)にも敏感だった。

逆も然りで女性は泣いてもいいのに男性は弱さを見せちゃいけない、といった社会的圧力にもいつも疑問を持っていた。

 

フリフリがついた女性らしい服装は自分が着るのは嫌だったり、女性なら当然気にかけるオシャレなカフェや美容やファッションには疎く、男性にいかに好かれるかを説くような女性誌がとにかく嫌。

就職した際に親が役に立つからと買ってきてくれた「女性の品格」という本は少し読んだだけで目眩がした。古い男尊女卑の考えを持つ父がこの本を私に読ませようと思った意図を考えると吐き気がした。

人、そして社会人としてあるべき姿を書いてあるのは勉強になるがそれが「性」に結びつく事が理解出来ない。と言うと「まだ分からないか」と子供扱いされて終わった。

 

性について真面目に考えているからこそ見るもの、感じるものがあるのだが、見えてない、見るつもりもない人に私が見ているものを説明するのは難しいと感じた。

 

話がやや逸れたがとにかく、私は昔からスポーツやお笑いを観たりゲームをしたり、少女漫画より青年漫画、読む本もどこかおじさんっぽかったりと男性寄りの指向があった。

 

なぜ女らしくしなくてはいけないんだろう、私って何で女なんだろう。

と同時に男性に男らしさが押し付けられる事にもずっと疑問を持っていた。

早い話が、なぜ皆がそんなに性別に拘って生きているのか理解できずに、この違和感を漠然と抱えて生きてきた。

 

 

ここで誤解してほしくないのは、ノンバイナリーは性自認にのみ言及する事であり、性的指向とは別である事だ。

 

性的指向に関しては言い出せばキリがないし本題から離れるので今は触れないが、

少しLGBTQについて学んでみると、昨今は細分化が進んでおり、際限なくカテゴリーわけがあるような印象だ。

これだけ細分化されていると、恐らくかなり多くの方がどこかに属す。つまり突き詰めると一人ひとり違った「その人らしさ」という所に行き着く。

 

こう考えると、性自認に関してカミングアウトという言葉もしっくり来ない。

 

私は、私は(生物学的に)女性です、という事に抵抗はない。

胸はあるし、男性器はないし、月経は来るから、自分は女なんだろうなと思う。そこに疑問は抱かないので、わざわざ細かいことを言えば私はノンバイナリーなんです、と主張するつもりもない。聞かれればそう答えるけど。

ちょっと変わった女性という認識でも十分だけど、ノンバイナリーの概念がもっと広まれば、自分を説明する時にひとつ楽ができる。とも思う。

 

これからも「もっと女らしくしろ」みたいな事を言われても「これが私です」としか思わないし、変えようとも変えなくちゃとも思わない。

 

女性としての自分を意識しないのと同じようにノンバイナリーも特に意識せず私は私でいたい。

 

以上。

 

 

自分の性自認について真面目に綴ってみたのは初めてなので面白かった

読んでくださりありがとうございました

 

 

 

ミニマリズムって、仏教じゃね?

もはやこのブログはネトフリ感想の場になっている気がしなくもないが、先日ネトフリで配信されているミニマリズム系のドキュメンタリー映画をいくつか観た。

短くて内容が凝縮されていると思ったのは「今求められるミニマリズム」という邦題なので興味がある方は是非。

 

そこでいかに自分がミニマリズムを誤解していたのかに気付かされた。

私はずっとミニマリストとは本当に必要最低限のモノしか持たず、やたら小さい家に住んでいる人たちの事としか思っていなかった。

しかしドキュメンタリーを見て、ミニマリズムとは「無駄な物欲を捨て、もっと自分や他者の幸せに直結するシンプルな生活を心がけること」だと理解した。

どこか仏教に通ずる内容である。

 

物を捨てる事、物に執着しないことで物に囚われた価値観から脱出し、本当の自分の幸せと向き合うことができる。

そして欲に囚われないことで他者と自分を比べずに済み、心に平穏と幸せをもたらす。

欲求の中でもモノだけに特化したのがミニマリズムの考え方で、仏教の中の一部にミニマリズムがあるようなイメージ。(あくまで私の解釈)

 

自分を振り返ると、私はあまり物欲がなく、ほとんど必要なものしか買わない。服も同じパターンのものを何着か持っているだけで、流行品や高級品にもあまり興味がない。テレビも10年以上前に破棄した。部屋がごちゃごちゃすると掃除が面倒くさいというズボラな考え方からだが、結果的にこの方が気持ちよく過ごせるのだ。

女友達との買い物なんかは、買い物を楽しむのではなく、世間を知るためのものという感じだ。

ただ、本当に気に入ったものや、日常で使うものは買う。そして自分が本当に価値があると思えること、経験する事にもお金を出す。私の場合は本や映画や音楽と、旅行などである。つまり私の欲求は、物それ自体よりも実際に体験し自分にインパクトを与える事をより求めている。

ここで例えば旅行したいという欲求さえも無かったら仏教の域なのかもしれないが、物欲だけがあまりない私は、もしかしてナチュラルにミニマリストなのでは?と思えてきた。

 

それにしても、物と心理というのは非常に相関性があることを改めて考えると、非常に面白い。不必要なものまで捨てられないのは貧しい経験をしたことがあるだとか、買い物依存症は現状が満たされていない事の現れだとか。収入が低いほど家に不必要な物をため込むこともよくあると思うが、これも経済的な不安からくる本能的な対処であり自然なことなのだろう。

もっと研究されてほしい気もするが、世の中の仕組みが資本中心である以上、研究費出なそう。笑

 

最後に、私はミニマリズムが正しいとか、多くの人がそうすべきなどともあまり思わない。

人間が社会的な生き物である以上、他者と自分を比べ、欲しがり続けるだろうし、この物欲が文明を発展させてきた側面もあるはずだからだ。

人の幸福度は年収1000万円程度を超えるとさほど変わりがないが、1000万円程度までは年収と比例する、というどこぞの研究から考えても、ある程度の物や消費行動は人に安心や幸せを与えるというのもまた事実だろう。

 

何より、「今求められるミニマリズム」の二人って、二人とも一度は社会的成功を収めた人である。一度は物質的に満たされたからこそ、次のレベルの研ぎ澄まされた幸せを求めミニマリズムにたどり着いた、という話。

ずっと物質的に不自由な人たちにミニマリズムはむしろ酷な話で、既に物質的に不自由のない人たちが選択肢として辿り着くミニマリズムには意味があるはず。

日本なんかは特に物質的にはもう十分に満たされているのだから、ものがありすぎて生活を見直してみたいという人には丁度いいかもしれない。

 

早い話が「足るを知る」

 

こういう価値観で生きる事を選択する人たちは、これからじわじわと今以上に増えていくかもしれない。

 

 

新型コロナウイルス情報戦の中で平和への誓い。

新型コロナウイルスの件で思う事

 

今あちこちに陰謀論みたいなものが溢れています。

その中に真実も勿論あるとは思いますが、
特定の人種・民族、宗教を槍玉にあげている説に同調するのは非常に危険です。

 

沈鬱した空気の中で特定の的に目を向けさせる情報を拡散し目的を果たそうとしたのは、まさにナチスドイツがした事です。

ナチスに限らず歴史の常套手段。

 

この空気が戦争を呼び、ホロコーストまで正当化してしまうという恐ろしさを今一度人類に思い出してもらいたい。

 

現在欧米で「新型コロナウイルスは人種戦争であり、黄色人種国家らが連携して白人国家を襲う為に作られた」という都市伝説があり、それを信じる人も一定数います。

恐らくアジア全体の死亡率が欧米よりも低い事により生まれた説かとは思いますが、

こんなに根拠のない情報でも、混沌とした社会情勢の中ではより信じる人が増えます。

 

今の時代にそう簡単に戦争にはならないと考える人も多いかと思いますが、いつの時代も経済が疲弊し鬱屈した社会情勢というのは一番注意しなければいけない時です。

大きな権力下では情報も簡単に操れてしまう事から、より一層個人のモラルが問われます。

 

数え切れない情報があり、世界が既に情報戦になってきているのは間違いないですが、

今一度、歴史から学び、情報に踊らされず平和を意識したいところです。

 

Netflixこのサイテーな世界の終わりシーズン2は観るべきか?

このサイテーな世界の終わり

The End of The **cking World

出ました新シーズン!!!

待ってませんでした!!

なぜなら前シーズンの終わり方が逸品で、シーズン2が作られるかも?

って時点で続編を望まない声が大多数を占めており、

私ももれなく、続編ダメ!絶対!派でした。

制作していると知った時点でがっかり。

この続編を作るなんて作品への冒涜だ!くらいに思っていました。

 

(その時の溢れる興奮と感想はこちらから↓)

Netflix「このサイテーな世界の終わり」が意外と良かった話。 - まつブロ

 

ところがどっこい時は経ち、いつの間にやらシーズン2が公開されており。。

 

観ない。観ないんだから。私はあの終わりが好きなのっ。

観ないんだから。。。。ちょっと気になるけど。。。

ぜ、ぜ、絶対に観ないんだからねっ。。。!!!!

。。。。。。。。。。。。。。

 

というわけでシーズン2を観たのですが、

「ほほう~!!!そう来たか!なるほど!!」

めちゃくちゃ面白かった(^O^)!!!一気見しちゃったもんね!

シーズン1のあの終わりを次に繋げて、更に視聴者を納得させる仕上がりにするのなんて到底無理だと思い込んでいましたが、

この終わり方なら納得できるという素晴らしい仕上がりでした。

 できるんですね!やろうと思えば!

というわけでシーズン2は、あの終わりが大好きだった方でも観ても大丈夫!というか観るとシーズン2が作られた真意がわかるのでむしろ観る事をおススメします。

 

 

※ここからはネタバレ含む感想かつ考察※

 

アリッサとジェームズ、この二人は相変わらず本当にエモい。

シーズン1の中でも二人は成長を見せていましたが、

シーズン2のラストこそが本当の意味での二人の成長の証。

 

シーズン1が完全に浮世離れの逃避行だとするならば、

シーズン2のラストが共に現実を生きると決めた決意の表れ。

 

仮にシーズン1のまま終わっていたら二人は逃避行をしたというそれだけの話で終わりだけど、シーズン2のあのラストを見せたことにより、物語がぐっと現実に近づきました。

 

 

・アリッサという女性

しかしアリッサ。。。このアリッサに共感する女性ってたくさんいるのではないでしょうか。

私もシーズン1,2通して

「この子、なんだか自分を見ているみたい(ここまで酷くはないけど)」

って何度も感じたのです。

素直じゃないかと思えば急にめちゃくちゃ素直になったり(とても不器用)、

傍若無人な態度の連続かと思えば人間らしい優しさを垣間見せたり(とても不器用)、

とても強くてとても脆い。

しかも目の前に穏やかな幸せが用意されてもなお「なんかコレじゃない」ってなってその本能に従うような女性。

一緒にいて飽きないってきっとこういう人なんじゃないのかーとか

でもこういう女性と一緒にいる男性は大変だなーとか俯瞰してみたり。

一言で言えば、ニンゲン!丸出しな女性。それでいて大きい空っぽを抱えている。

でこういう人がなぜかモテる世の不思議。

なんだかアリッサの幸せが自分の幸せのような気さえしてくる共感性の高いキャラクター作りには感服です。

 

だからアリッサ!現実をがんばって生きてくれ!!!

 

 

・役者陣その他

役者陣も相変わらず、主役のアリッサとジェームズは言うまでもなく、

脇役まで素晴らしい。

新キャラのボニーも終始かなりの存在感があり、シュールさと迫真の演技を完璧に使い分けている。すげー。

ひとつ残念だったのが、私の推しのジェームズの父の死。

ジェームズの父ちゃん大好きだったのに、あんな簡単に殺さんでよ(´;ω;`)ウゥゥ

それをきっかけにして二人の運命がまた動き出したわけだけど、死ってあまりにも安易すぎてもう少し他になかったんかい!と思いました。

どうせハッピーエンドになるんだったらジェームズ父生存したままハッピーエンドが良かったのと、

二人の運命はいずれ共になった気がするから父ちゃん死ななくても良かったよね。っていう気持ちで複雑です。

しかしジェームズ父、死してもなお良い奴。

 

 

 

 

まだまだ興奮を抱えておりますが

とにかくアリッサとジェームズのコンビは最高!!ってことでこの辺にして

シーズン2は観るべきです。以上~

 

 

サウスパークここに復活せり

私いま大変興奮しております

なぜならサウスパーク、私おまつの大好きな、あのサウスパークのシーズン23が開始され今2話目

この2話目に感動したからであります!!!!

昨今のサウスパークにおいてシーズンの1話目がコケるとシーズン中コケ続ける流れが続いており

今回のシーズン23の1話目が非常につまらなかったため
落胆していたわけであります

しかし私のサウスパーク愛とは強固たるものですので
2話目もまあとりあえず観るわけです

すると…

・・・・・・・・・おもしれえ!!!!!!

昔のサウスパーク思い出す!!!

これだよこれ!!!!

世の変なとこディスりまくって笑いに変えて

20分の中で鳴り止まない言葉遊び!!!

そしてアニメだから見れる程度の暴力的な描写と皮肉!!!

そう、これが私の愛するサウスパークだ!!!!

帰ってきたんだよ、あのサウスパークが!!!


完全に昔からのファンを意識したつくりで最高でした。

あらすじはおおまかに中国とアメリカの今の関係を皮肉ってる内容。


近々サウスパークNetflixでも公開されるらしいから、ますます日本で盛り上がるかもー。


吹き替え版があるのか知らないけど、もしあるのなら声優さん達は日本版初期の人達が全員帰ってきてほしい

特にLiLiCoカートマンは絶対。

他の国の吹き替えカートマンと比べても、LiLiCoさんだけは格別に元の雰囲気そのままで本当にちゅっちゅなの。

ところで、日本語吹き替え版のサウスパークは今はもうどこかで観れないのかな?
買うしかない?でも売ってもないしー。
もし知ってる人いたらぜひ教えてください。


おまつ久々に大興奮の
South Park Season 23, episode 2

"Band in China" はこちらから↓

https://southpark.cc.com/full-episodes/s23e02-band-in-china


ちなみに今回のエピソードに出てきた
BOY BANDフィギュアももちろん持ってるお! (じまん!)
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Drunk and Guilty理論

私はお酒が全く飲めない人間なのでよくわからないが、

飲める人の話では、飲みすぎると翌日に罪悪感が襲ってくることがあるという。

その罪悪感には色んな要素が含まれているが、

中でも「人には言うつもりのなかった自分のプライベートな話を共有してしまった」ことに対して、

つまり、喋りすぎてしまったことに対する罪悪感がもっとも強くあらわれるらしい。

 

これなら私もわかる。

私は特に自分の殻に閉じこもった人間なので、

ついうっかり個人的な話をした時に、どうしてあんなことを話してしまったんだろうだとか、

配信しすぎた後にやってくる罪悪感とか、ツイートしすぎた後にやってくる罪悪感とか

思い当たる節はありまくる。

 

むかし心理学の本を読んでいた時に知ったのだが、

この現象を「drunk and guilty理論」と言うらしい。急に思い出した。

「酔っぱらったと罪悪感」。

(もっと正しい言い方があった気がするが、忘れた。だからここではDrunk and Guilty理論と言うことにする、すまん)

 

うろ覚えで申し訳ないが、だいたい要約すると

 

人間が人間となっていく過程で、社会という建前にいる自分と、自分そのものである本音の自分と、ふたつの自分を自然と形成していくので、

自分そのものの本音を他者(=社会)に見せた時に、社会の中にいる自分に対しての裏切りのように感じて、罪悪感を感じる。

そしてその建前の自分と本音の自分の差が大きい人間ほど、このDrunk and Guiltyを感じやすくなる。

という構造。

 

 

大人になればなるほど、個人的な事を他者と共有するのを躊躇するようになるのも、

本音の自分よりも、社会(建前)の自分が大きくなっている事の表れだろう。

 

 

その本には

「本来、人が個人的な経験を他者と共有するという事には何ひとつ悪い事はない。共有することで初めて人間は互いを理解し尊重する気持ちがうまれる」

みたいなことも書いてあった。

 

これって本当にそうで、話すという行為そのことは別に悪い事ではない、少なくとも。

なのに人間は罪悪感を感じる。ふしぎだねぇ。

 

最近はありすぎなんじゃないかってくらいに

他者と自分をつなぐツールがある。

 

特に社会的弱者となってしまった人たち(病や精神疾患など)にとっては

実際の知人友人には打ち明けられないような自分の体験をオンライン上で共有することで、

オープンダイアローグのようなセルフトリートメントを自発的にしているような印象も受ける。

 

正直、自分が思っているほど他人って他人にそこまで興味がないのだから、

自分のことを話したって

相手が自分が思うほど深く受け止めるわけでもないんだし

場所と相手さえ見極めれば

もっと気軽に話してもいいんじゃないか

 

という気分になっている私である。

 

だから、話しすぎたと思って

うああーってなってる人に

「気にすんな、たいしたことない。黒柳徹子を見てみろ、幸せそうだろう?」って言葉をおくりたい。