Drunk and Guilty理論
私はお酒が全く飲めない人間なのでよくわからないが、
飲める人の話では、飲みすぎると翌日に罪悪感が襲ってくることがあるという。
その罪悪感には色んな要素が含まれているが、
中でも「人には言うつもりのなかった自分のプライベートな話を共有してしまった」ことに対して、
つまり、喋りすぎてしまったことに対する罪悪感がもっとも強くあらわれるらしい。
これなら私もわかる。
私は特に自分の殻に閉じこもった人間なので、
ついうっかり個人的な話をした時に、どうしてあんなことを話してしまったんだろうだとか、
配信しすぎた後にやってくる罪悪感とか、ツイートしすぎた後にやってくる罪悪感とか
思い当たる節はありまくる。
むかし心理学の本を読んでいた時に知ったのだが、
この現象を「drunk and guilty理論」と言うらしい。急に思い出した。
「酔っぱらったと罪悪感」。
(もっと正しい言い方があった気がするが、忘れた。だからここではDrunk and Guilty理論と言うことにする、すまん)
うろ覚えで申し訳ないが、だいたい要約すると
人間が人間となっていく過程で、社会という建前にいる自分と、自分そのものである本音の自分と、ふたつの自分を自然と形成していくので、
自分そのものの本音を他者(=社会)に見せた時に、社会の中にいる自分に対しての裏切りのように感じて、罪悪感を感じる。
そしてその建前の自分と本音の自分の差が大きい人間ほど、このDrunk and Guiltyを感じやすくなる。
という構造。
大人になればなるほど、個人的な事を他者と共有するのを躊躇するようになるのも、
本音の自分よりも、社会(建前)の自分が大きくなっている事の表れだろう。
その本には
「本来、人が個人的な経験を他者と共有するという事には何ひとつ悪い事はない。共有することで初めて人間は互いを理解し尊重する気持ちがうまれる」
みたいなことも書いてあった。
これって本当にそうで、話すという行為そのことは別に悪い事ではない、少なくとも。
なのに人間は罪悪感を感じる。ふしぎだねぇ。
最近はありすぎなんじゃないかってくらいに
他者と自分をつなぐツールがある。
特に社会的弱者となってしまった人たち(病や精神疾患など)にとっては
実際の知人友人には打ち明けられないような自分の体験をオンライン上で共有することで、
オープンダイアローグのようなセルフトリートメントを自発的にしているような印象も受ける。
正直、自分が思っているほど他人って他人にそこまで興味がないのだから、
自分のことを話したって
相手が自分が思うほど深く受け止めるわけでもないんだし
場所と相手さえ見極めれば
もっと気軽に話してもいいんじゃないか
という気分になっている私である。
だから、話しすぎたと思って
うああーってなってる人に
「気にすんな、たいしたことない。黒柳徹子を見てみろ、幸せそうだろう?」って言葉をおくりたい。