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思考の渦

ミスター・ノーバディが面白すぎた話【感想・解説・解釈】

今年私が観た映画で一番面白かったのは、テリーギリアムのゼロの未来で決まり…!と思いかけていたこの師走にやってきましたこれ。

ミスター・ノーバディ。実に面白かった。面白さで言ったらゼロの未来と同等か上回るくらいの勢い。

比較するのもあれですが、私だけでしょうが、テリーギリアムの難解さゆえの中だるみにやや疲れるという現象がこの「ミスター・ノーバディ」には一切なく、最初から最後まで集中して一気に見れてしまった。

この辺りは、マニアに向けて、ではなくあくまで一般大衆に意識が向いている事の表れだと思う。

ジャコ・ヴァン・ドルマル監督おそるべし。

ついでにこの映画、アメリカ資本が入ってない事を後から知った。

フランス、ドイツ、カナダ、ベルギーの合作だそうだ。

アメリカ資本がなくてもみんなで協力すればこれだけ壮大ないい映画作れるんだと思うと、アジアも協力さえできればものすっごいの作れそうなのにね。

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ついでに、アメリカ版パッケージの方が本題に近くて好き

 

 

あらすじ

時は2092年、人類は不老不死になっている。肉を食べなければ、セックスもしない、タバコも吸わない、ただ増殖を繰り返すウイルスのような存在だ。そこで人類最後の「死」を迎えようとしている人間、それが「ミスター・ノーバディ」。

この歴史的な出来事を捉えようとメディアも彼に注目する。

しかし彼の口から出てくるのは、矛盾したいくつもの出来事で…なんとこの爺さん、天使のミスで自分の未来を全て知った状態で生まれてきてしまったトンデモ爺さんだった…!という話。

 

 

前知識として、

哲学や宇宙科学、量子力学みたいなものに少しでも興味がある人と、全くない人とでは解釈にかなりの差が出てきてしまう。

バタフライ効果とかエントロピーとかビッククランチ(宇宙大収縮)などについて知識があれば話がもっと面白くなるのだろうが、そういう細かい演出は置いておいて、

この映画で最も重要なのは「並行世界(パラレルワールド)」を理解しているかどうか、という事だ。

簡単に説明すると、過去も未来も、選択一つで変わってしまった自分の何本にも分岐していく世界線も、すべては今ここに同時に存在している、という事だ。

この視点があるかないかで、この物語への理解がかなり異なる。

視聴後にいくつかレビューを拝読させてもらったが、並行世界的な、或いは多元宇宙的な解釈を以って視聴した人なのか、そうでないのかが一発でわかる。

細かい事は私にもよくわからないが、とりあえずこの映画を理解する上では、

このミスター・ノーバディが語った自分の数々の人生線、これはどれも確かに全て起こった(今起きている)のだ、という視点が重要になってくる。

どれが嘘でどれが本当の彼の生きた線なんだ?ではなく、「ぜんぶが彼の生きた(生きている)世界線」なのである。

 

しかーし、これはあくまで以上のことを理解しているとより味わい深いというだけで、

この映画の一番すごい所は、そういった小難しい哲学的な要素を全く理解していなくても十分に人生を考えさせてくれる素晴らしい作品としても仕上がっているという点にある。

哲学的な部分に重きを置くか、ひとつの愛を重視して観るのか、人生の選択とは、とか、見る人次第でいろんな視点でそれぞれの感情に浸れるような作りになっている。すごすぎない?この幾重もの構造。

ジャコ・ヴァン・ドルマル監督、天才かよー(^O^)すこ。

 

 

 

ここからはがっつりネタバレ込みの感想・解説を書いていくので、まだ観てない人はここで読むのをやめてね。

 

 

 

・視聴者思い

冒頭とも重なるが、まずは私が何より感動したのが、とにかく視聴者を置いてけぼりにしていかない、という努力。

普通ならたくさんの人生線が出てきて、頭がこんがらがっちゃいそうなものなのに、全くそうならない。すぐに「あ。ここはこの線ね」と瞬時に理解できる作りになっている。

主演のジャレッド・レトさんを筆頭に、役者陣もさることながら、その演出に気遣いがあるおかげで、こんがらがらないように仕上がっているのだと思う。

小難しい話も、物理学者・ノーバディ線からの説明もあったりして、徹底して観てる人を置いていきませんよ、という姿勢が伺える。

マニアにだけ届け!じゃなくてきちんと一般大衆を意識している努力に感銘。うん。。視聴者思い。。。(はあと)

映像は芸術性よりも物語を理解させる事に誠実に作られており、所々印象的に使われる音楽もめちゃいい。

 

・大前提として、どの人生線でもミスター・ノーバディは基本的にイイ奴だった。が。

 

そして、物語の主軸である彼のたくさんの人生線、これがわかりやすく恋愛で表現されていた。

本命の「アンナ」、次点の「エリース」、そしてやけくそ選出の「ジーン」。

いや、アジア人女性の扱われ方…とか少し思ったけども。ありがちじゃん、めちゃくちゃいい人のアジア人が本命になれなくて終わる感じのやつ。

これがまたそれぞれにとても考えさせられるので、ひとりずつ解説してみる。

 

・まず本命のアンナ線

は言うまでもない、そりゃ人間の理想的なハッピーエンド。自分が心から焦がれる人と結ばれ、その人を思いながら死ぬ。出会いから何から全ての描写がドラマティック、ロマンティックで、ああ、美しかった。(じゃあ大人になっていざ一緒に生活し始めたらどうなるのか、という現実感を見せなかった所がにくい。笑)

誰もが、チクショウ!あんな恋してみてえよーと嘆けること間違いない線。

ホームレスにはなっちゃうけどね。

主人公にとってこのアンナは「必然的」で「絶対的」な愛という存在。

でも現実的に、普通の人間がこんな愛に出会う事って稀にも程があるんだよね(真顔)。

 

・次点のエリース線。

この二人の愛はいわば「偶然的」に振ってきたものだった。そして最も献身的な、自己犠牲的な愛であった。「私に構わないで車掃除とは何事じゃい!」とプンスカするエリースの言葉に速攻で「そんならこれでどうじゃい!」と車を燃やしたノーバディ氏。めちゃくちゃわかりやすい愛の深さの証明である。

端から見たら、それで幸せなの?と思ったりもするけど、人間ってやっぱり誰かを愛したい生き物だったりする。自分が生きている意味が欲しいから。

なのにエリースは出て行った。エリースは結局べつの誰かを愛していた。本当の意味では実在しない誰かを。

冷酷な言い方をしてしまうと、結局ふたりとも自己投影した自己愛に浸っていて最もエモい線なんだけど、これもこれでひとつの愛という形で美しかった。

表現は極端だったが、そこに愛はあるのになかなかうまく行かないという、多くの人がこんな愛の中に生きているのでは、と思える一番現実的な線だった。

 

・そして最後にジーン線。

ミスター・ノーバディは基本的にどの人生線でも基本的にはとってもイイ人なのに、唯一、意図的ではなくとも人を傷つけてしまう人生線があった。それがこのジーン線だ。

彼はこれから起こる何もかもに自分が揺すぶられない為に、人生の全てを計画立ててその通りに実行して、欲しいものを全て手に入れてゆく。

つまり自分の感情を捨てて理性で生き抜いた線。

仕事も成功して、あたたかい家族がいて、良くできた妻もいて、

何も不満はないはずなのに、心にはぽっかりと穴がある。

それはずっと自分の感情を無視して生きてきたからだ。

妻に心からの情熱がない事にも目を向けずに生きようとしているのだが、妻はその事実を感じ取っている。

彼女が彼を心から愛していたからこそ。

エリースが流す涙とは違って、ジーンが流した涙はきちんと主人公に向けられたものだったのが印象的だ。

いちばん日本的な線だなあって私は思ったのだが、

一番ちゃんと生きようとした線でこうなるとは、少し悲しすぎやしないか。

この線で生きて幸せな人もたくさんいるだろうが、

現実的には、ここまで理性で生きる事って、ほぼ不可能なはずだけど、突き詰めたらこうなったよっていう究極的な線だった。

 

に関しての一番の理想のカタチはアンナって事らしい。最近個人的にぼんやり考えている「愛したいとか、愛されたいとか、そういう気持ちで人と一緒にいるのではなくて、自分が誰と一緒にいるときに一番満たされる気持ちになるのか、みんながここに焦点があれば、一番きれいな愛が成り立つのになぁ」ってことが、見事にここで描かれていて、少々テンションがあがった。

ただ、そんな人と出会うのは稀だから、みんな自分のエリースだったり、ジーンだったりがそばにいて生きている。

そして恐らくこれこそがこの映画の一番言いたい部分。

劇中にあった

私の生きたどの人生もが真実で、どの選択も同等の価値があった

もう、これが全てである。

人生とは、選択の連続である。自分がどの選択を選んだとしても、それに意味を持たせるのは自分次第である。

そしてどの選択をしたとしても、そこには同じだけの価値と重さがあるということ。

選択をしないという選択の中に留まっているという事は、同時にあらゆる可能性を残している無敵の状態ではあるんだけど、それだと現実には何のドラマも起きない、そうなるともう虚構の想像の世界で生きてなさいって話になる。(あの格子柄の世界だね)

 

話の本筋は分かりやすく愛で語られていたけど、別に恋愛じゃなくてもいい。

仕事でも言い換えられる。

アンナ=必然的に舞い降りてきた天職

エリース=やりがいを感じられる仕事

ジーン=淡々とこなすだけの仕事

みたいに。

アンナ=夢物語線

エリース=現実線

ジーン=理想線

って言い方をしてもいい気がする。

そこには何の差もなくて、どの選択を自分がしたのか、するのか。

彼にとってのアンナのように、自分が「これだっ!!」と思える、必然だったと思える何かに巡り合えればラッキーだから、そう感じる何かがあるのなら、

がっつりその幸せ掴んどこうな!ってくらいで、どの選択を選んでもその重さ自体には差はない。

だからこそ強く問われているのだ。

「ならば今そこに存在して無限の選択肢=可能性を持っているあなたは、どう生きたいのか」

 

そして、気付いた人も多いだろうが、この主人公、アンナ線にいなくてもアンナとは度々出くわしている。

エリース線の日常で偶然となりの車線にいるアンナとか、遺灰まきにいった火星で会ったりとか。

つまりどの線で生きていてもその重さは同じであるけれど、

「必然性とか、情熱の源って、実はどこにでも転がっている」というヒントなのでは、と私は捉えた。問題はそれに自分が気付くか気付かないか。

 

最も、この作品の厄介なのは

人間、最後に残るのは愛だよーと見せておきながらも、

「全ての現象も宇宙を前にしては究極的には何の意味もない」とか「自分って存在していない」という事実も暗に示してしまっていて全く救いがないところにもある。なんとも奥深い。

 

 

34歳

というのは、一応話の真ん中にいるお爺さんのミスターノーバディがあの病院にちょうど来た年齢だった。

そのくらいの年齢って、世の中の酸いも甘いもある程度実感を伴ってみえてくるようになって、自分の人生について考えたり、転換期になったり、誰にとってもそういうお年頃ではないだろうか。

自分がどうなりたいのか、とかがちょっとだけ明確に見えてくる年齢。そしてその選択をして、実現させていくのにも大いに間に合う年齢。

人生の大きい軌道修正がまだ余裕で可能なんだよね、34歳なら。深読みかもしれないけど。

 

残った謎

私が理解できなかった部分。

・結局あの爺さんがいる線はどれだったんだ?

私の脳みそでは一回の視聴ではこれがまったく分からなかった。

とりあえず、34歳であの病院に来たというのが大きなヒントである事は間違いない。

ついでに、そもそも爺さんは生まれていないという解釈もあるようだが、確かに一理あるし面白い解釈ではある、でもそれを言ってしまうと全てが「無」になってしまってつまらないので、

現にそこに爺さんがいるからには線を辿って読み解きたいと私は思う派である。

 

私はこの34歳というヒントを手掛かりに自分なりの解釈を見つけたい。

冒頭の病院に遺体(?)で運ばれてきたっぽい部分、あれ34歳っぽいし。

殺し屋っぽいのにやられたの後のあれなのか?とも思ったが、額に傷とかなかったからよくわからないし、そもそもあの殺し屋なにもの?というのも謎だし。

 

エリースに失恋して寝たきりの線から、34歳で目を覚ました、という仮説を立ててみたけど、合ってるのかまるで自信がない。

なぜならそれよりも前に目が覚めそうになってるし、なんなら冒頭に運ばれてきた34歳っぽい傷のない遺体はなんなの?ってなるし。。

 

もうひとつの9歳というポイント。そこで重大な選択ができずにバタフライエフェクトの効果だけに頼って自分の中に閉じこもったすべてはあの格子柄の世界にいる爺さんの頭の中の出来事、とかも

あるっちゃありそうだけど、、じゃあ34歳なによ。ってなるし。

 

まさにミスター・ノーバディ、お前誰だよ状態。

こういうなぞ解きを残してるところも、実におもしろい。

 

とりあえずわからないので、後で二巡目してみることにしよう。

また何かわかったら追記するとして、自分なりの解釈がある人は、ぜひコメント欄で教えてほしい。

 

では今回はこの辺で。ありがとう、ミスターノーバディ。